小泉と安倍のルーツは朝鮮人である

安倍晋三が、北朝鮮出身の文鮮明の支配する統一教会に祝電を送るのも、安倍晋三のルーツが朝鮮人であることからすれば当然であろう。北朝鮮出身の父親を持つ在日朝鮮人の小泉が、国際ユダヤのエージェントの手先で大和民族を間接支配しながら、日本国を破壊しその富を奪い取る密命を帯びて、国際ユダヤから日本国支配と大和民族の分裂と解体を行なうべく、日本国総理大臣の地位(実質的には、植民地日本を解体・支配する日本総督)を委ねられてから5年が経つが、その賞味期限切れに伴ない、新しく同じく朝鮮半島にその一族のルーツを持つ朝鮮系の岸・安倍一族の売国奴・フリーメーソンを次期植民地日本の新総督に任命しようとしている。またもや、人が良く騙されやすい大和民族は、あの安倍晋三の反北朝鮮の強硬姿勢に騙されて、妻は在日、祖父の岸信介も朝鮮半島生まれのルーツの朝鮮人に、日本国家の命運を託そうとしている。その国際ユダヤに与えられた役割は、反北朝鮮・反中国のポーズで北朝鮮と中国を挑発させて、両者の軍事衝突を引き起こさせて、東亜戦争を引き起こすことである。その安倍晋三の晋総理就任を誰よりも喜んでいるのが、金正日と北朝鮮の日本大使たる朝鮮総連の首脳である。朝鮮総連のトップの「我が同胞の安倍晋三の総理大臣就任は、何より好ましい。」との発言の証言こそが、何よりも「事の真相」を物語っていよう。日本国民と大和民族は、いい加減にこの真実に気付いて、「「ユダヤと北朝鮮」による日本の異民族支配構造」の実態に覚醒して、「尊皇攘夷の国民運動」によって、これらの「日本人を装う非日本人」の排斥と異民族支配の打破に決起すべきだ。

http://www.youtube.com/watch?v=XIDPNyJHh_M


http://www.asyura2.com/0601/senkyo25/msg/152.html


鬼塚英昭氏の著書『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、 日本国家の真相は、明治維新で長州藩田布施一味に国家を乗っ取られたということであることが解る。
 長州藩の田布施一味とは、山口県熊毛郡出身の政治家らのことである。
熊毛郡の田布施町を中心にしている。
ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。
大室寅之祐=明治天皇、
伊藤博文、 幸木戸一、 宮本顕治、 河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。
むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。  
小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。
鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落である。
小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。
小泉の次に安倍政権、そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。
 ユダヤ国際金融権力は、こういう人間を使って、日本乗っ取りを支援しながら、連中の弱みを握って、思い通りに支配してきたのだ。
ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。 例えばとして、鬼塚氏は、幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の被差別部落を調査させている、と言っている。  
『日本のいちばん醜い日』に益田勝実氏の文章が引用されている。

 「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、 明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、 近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。
尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。
かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、…… 激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。
 わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。
奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。 もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。 志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。 今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。
(益田勝実『天皇史の一面』より)」  

益田勝実は長州の国家老一族である。だから田布施の住民を虐げた側というか、支配した(あるいは敵対した)側である。 その子孫である益田勝実が、 「てんのうはん」、つまり、山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、 孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、 明治天皇となった真相を突いたのだ。

山口県田布施町の怪 ~日本国家の真相~ (心に青雲)
http://www.asyura2.com/07/bd50/msg/536.html
投稿者 ウソ捏造工場 日時 2007 年 9 月 10 日 19:11:32: OszuLYfIhReeI

 

山口県田布施町の怪(上)
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/7839377a3613e3d90e1198535ea65ced
《1》
 鬼塚英昭氏の新著『日本のいちばん醜い日』(成甲書房)を読むと、日本国家の真相は、明治維新で長州藩田布施一味に国家を乗っ取られたということであることが解る。
 長州藩の田布施一味とは、山口県熊毛郡出身の政治家らのことである。熊毛郡の田布施町を中心にしている。ここは光市と柳井市に挟まれた寒村だった。大室寅之祐=明治天皇、伊藤博文、木戸幸一、宮本顕治、河上肇、難波八助、松岡洋右、安倍源基(終戦時の内務大臣)、賀屋興宣などである。むろん、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三は、この田布施一味の末裔である。
 小泉前首相の父・純也は、鹿児島の田布施(現在は加世田市金峰町)出身の朝鮮人である。鹿児島の田布施も山口県の田布施と同じ、朝鮮人部落である。小泉純也は上京して小泉又次郎というヤクザ(刺青大臣と言われた)の婿養子となって「小泉姓」を名乗り、日本国籍を取得したのだ。小泉の次に安倍政権、そのいずれもが朝鮮人部落だった田布施の出身であることが偶然であるわけがない。
 ユダヤ国際金融権力は、こういう人間を使って、日本乗っ取りを支援しながら、連中の弱みを握って、思い通りに支配してきたのだ。ユダヤは徹底的に日本の事情=弱点を探って研究しつくしている。例えばとして、鬼塚氏は幕末に英国公使パークスは、外交官アーネスト・サトウを使って日本の被差別部落を調査させている。
 『日本のいちばん醜い日』に益田勝実氏の文章が引用されている。
 「天皇様をお作り申したのはわれわれだとは、明治以前に生まれた長州の老人たちによく聞かされことだったが、近代天皇制以前には、京都に天皇家はあったが、天皇の国家はなかった。尊皇派が考えていた天皇の国家の考えは思想として獲得されたもので、現実に京都にいる天皇という実在の人物に合わせて作られたものではなかった。かれらが求めている天皇と現実の天皇と、いくらか融和出来るうちはよいとして、その矛盾が激化すると、……激化すると、天皇を取り換えてしまうほかなくなる。
 わが家に空襲で焼けるまであった孝明天皇使用の皿は、おそらくまだ長州と天皇の間がうまくいっていた、蜜月時代にもたらされたものだろう。奇兵隊挙兵の翌年、1866年(慶応2)の暮れには、孝明天皇は謀殺されてしまった。もちろん、仕組んだのは江戸幕府ではない。志士側で、天皇が倒幕の障害になりはじめたからである。今日では、このことはもう公々然の秘密となっている。(益田勝実『天皇史の一面』より)」
 益田勝実は長州の国家老一族である。だから田布施の住民を虐げた側というか、支配した(あるいは敵対した)側である。その子孫である益田勝実が、「てんのうはん」、つまり、山口県熊毛郡田布施町麻郷(おごう)に生まれ、孝明天皇の長子睦仁の替え玉となり、明治天皇となった真相を突いたのだ。
 『日本のいちばん醜い日』では、「大室寅之助は田布施の生まれ、……伊藤博文(林家が伊藤家の本家)と「虎ノ門事件」を起こした難波八助は一族である。また宮本顕治(日本共産党)も一族。そして、木戸幸一も系図に入ってくる。京都大学教授でマルクス主義を木戸幸一、近衛文麿に教えた河上肇も一族である。そして、大室寅之助の生家の近くに岸信介一族の生家もある。この地から代議士の国光五郎、難波作之助が出ている。また、元外相松岡洋右も岸信介の一族である。あの終戦内閣の最後内務大臣安倍源基も大室寅之助の生家の近くである。
……大室寅之助が南朝の末裔であるという説があるが、確たる証拠は私の調べた限りではなに一つない。むしろ、北朝鮮系の被差別部落民ではないのか、と思っている。」(「日本のいちばん醜い日」より)
 明治維新から日本の国家中枢に君臨する一族には、このような真相があるのである。
 鬼塚氏も書いているが、瀬戸内海の沿岸や島々には被差別部落が多い。そこからアメリカや中南米に移民として行かされた人も多い。「家船漁民」といって、船上で暮らす人々も瀬戸内地方には多かった。いずれも彼らはマレーシア方面から漂着した平家系の民であろう。
 源平の戦いがあった平安末期、貴族となって権勢を誇った平清盛一族は、(八切止夫によれば)マレーシア方面から比較的新しく紀伊半島に“鉄器を持って” 漂着した部族であった。その彼ら貴族化した平家を、それ以前に土着していた北条氏らの平家一族が源氏(頼朝や義経)という馬を扱える部族を使って日本国内から放逐したのがあの源平の戦いである。だから清盛一族側の貴族化した平家は、海洋民族だったから騎馬戦は得意ではなく、義経に追われると瀬戸内海を下関(壇ノ浦)まで逃げた。当然瀬戸内海には海洋民族である土着の平家系のいわば海賊もいたのだが、彼らは北条側の平家に就いて義経に協力したため、貴族化した平家らは撤退せざるを得なかった。だから源平の戦いとは、本質的に“新来の平家”と“旧来土着の平家”との内ゲバであった。
 それで勝った側の北条平家は、源氏系統=北朝鮮系を皆殺しにし、生き残った源氏系部族人間は別所などと言われる被差別部落に追い込んだ。おそらく瀬戸内一帯に土着していた源氏系の部族も別所などの被差別部落に押し込めて、まともな活動ができぬように圧迫したと思われる。その一つが山口県の熊毛郡なのであろうし、遠く鹿児島にも同様の田布施として源氏系部落を作ったのではないか。田布施という所は「正直いって、住むのに悪条件だらけの土地であった」と鬼塚氏は書いている。あるいは「やたらと寺の多さに気づく」とも書いている。権力者が寺院を使って被差別部落を抑えつけたのだろうし、本来は白山信仰を持ち仏教には転向しない源氏系(北朝鮮系)を強引に仏教徒にしようとした痕が、田布施の寺の群れなのだろう。
 鬼塚氏は、田布施出身の大室寅之祐の家が漁業を営んでいないことを指摘している。ということは大室家が平家ではないことを意味している。平家系の庶民の職業は、漁民か百姓と決まっていたからだ。鬼塚氏は大室寅之祐が北朝鮮系の被差別部落民ではないかと言っている。「週刊朝日」06年10月6日号に掲載された「家政婦は見た~安倍晋三研究」で、安倍家の家政婦の証言として、安倍晋三の父・晋太郎は、日頃から「自分は朝鮮だ」が口癖で、亡くなったときの遺骨を見ても韓国系の体型だったと言っている。
山口県田布施町の怪(下)
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/1c1ad0126db64c496dc1e8b573179ef5
《2》
 現在の天皇家としては明治天皇=大室寅之祐の血筋は途切れたものの、田布施(または熊毛郡)出身の一族郎党が国の権力を握っていることに変わりはないようだ。安倍晋三が首相を辞めない(辞められない?)その傲慢さも、彼が明治以降に日本を牛耳ってきた権力を受け継いでいるからだろう。それに安倍晋三は統一教会と縁が深いのだからまさに朝鮮半島勢力である。明治天皇とその取り巻きが、なにせ田布施出身の朝鮮人系統なのだから、現実の政治はその流れに沿うのである。
 終戦時(と開戦時)に外相だった東郷茂徳は、鹿児島の朝鮮人部落出身である。本名は朴茂徳である。鹿児島ではあるが、田布施と同じ出自なのだ。だから昭和天皇は終戦の大事な時期に、東郷茂徳を起用した。東郷に外交ルートを使った終戦工作、すなわち天皇の身の保全と、天皇家の蓄財の隠蔽を命じたのである。東郷はA級戦犯となり、服役中に病没しているが、おそらく真相を知る人間だから消されたのであろう。
 先に紹介したが、終戦時の安倍源基内務大臣は熊毛郡の出身で、安倍晋太郎・晋三との結びつきは不明らしい(家紋は同じ)が、大室家とは親族だという。安倍源基は周知のように、戦前、警察権力を一手に握った男で警視総監をやり、特高警察で君臨した。言ってみればゲシュタポかKGBの親分のようなものだ。権力者にとっては重要なポジションである。これもまた朝鮮人系が握っていたのだ。
 さらに。鬼塚氏が指摘しているのは、終戦時の内閣では大分県出身者が多いという。阿南惟幾陸相(竹田市出身)、梅津美治郎陸軍参謀長(中津市出身)、豊田副武海軍軍令部長(杵築市出身)、また重光葵(東久邇宮内閣外相)は国東半島出身。大分県は瀬戸内海で田布施とつながっている。この辺りは、先の家船漁民の活動範囲であって、その交流のなかで婚姻関係が結ばれていたはずなのである。つまり昭和天皇は同じ朝鮮人関係者で、敗戦処理を行なったのであった。
 こうして見てくると、どうして明治権力が朝鮮半島に侵出したか、しかも朝鮮半島をいわゆる植民地化せずに“内地化”して、インフラ整備を徹底的に施し、 “内鮮一致”を押し進めたかがわかる。つまり日本が稼いだ富を祖国・朝鮮半島にせっせと注入したのだ。また日本国内に在日朝鮮人を大量に残し、厚遇してきたかもわかる。権力者どもにとっては同族だからだ。わざと(ユダヤの指示で)日本国内に火種を残したとも言えるだろう。北による拉致だってわかったものではない。総連や北の工作員だけでなく、こうした闇のルートが拉致に介在した可能性もあるし、現在も小泉や安倍という朝鮮系の人間が首相をやっているのだから、闇は深まるばかりだ。
 こうして見てくると、話はやや飛ぶが、「アカシックレコード」の佐々木敏氏や、「国際情勢の分析と予測」サイトが指摘する、日本と北朝鮮は本当はかなり親しい関係にあって、ケンカしているように見せているのは表面的なことではないか、との予測は当たっているのかもしれない。冗談に聞こえるのだが、北の金日成や金正日は、「日」の字があって、親日の意味がこもっているのだとの説もあながち荒唐無稽な話ではないのかもしれない。つまり、われわれは「日」といえば日本の「日」だと固く思いこんでいるが、そうではなく、もうちょっと東アジア一帯という視点を持つと、北朝鮮系とそれに呼応する日本の源氏系(?)との連携(=同族)を意味する言葉が「日」なのかもしれない。
 「アカシックレコード」の佐々木敏氏はしきりに中朝戦争の危機を指摘している。安倍政権は中朝戦争に反対していると言われ、だから何がなんでも政権を維持して、祖国(?)北朝鮮が戦争に巻き込まれないように、あるいは中朝戦争によって東アジアの朝鮮族連合が破綻しないように、必死なのかもしれない。安倍政権が転覆すれば中朝戦争が必至とも予測されるなか、韓国系やら北系やらの思惑が交錯しているのが現況なのか。今度の朝鮮南北首脳会談もそれを受けてのこととも考えられる。
《3》
 さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。
 これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である。生前に明治天皇は生母に会ってさえいない。「この人間関係の冷たさがーーたとえ生母でなくても会えばいいではないかーー日本の暗黒をより深くし、日本を太平洋戦争へと突き進ませたと思えてならなかった」と鬼塚氏は書いた。そのとおりである。昭和天皇も今上天皇もその他皇族も、孝明天皇の子孫と思うのなら、中山慶子の墓を粗末にするはずがないのだ。
 先に「現在の天皇家は、明治の大室寅之祐の血筋は途切れた」と書いたが、大正天皇はどうやら大室寅之祐の子らしいが、昭和天皇は大正天皇の子ではないからである。西園寺八郎と貞明皇后のあいだの子とされる。その事情を『日本のいちばん醜い日』で詳述している。西園寺八郎は毛利家から公家の西園寺公望(元老でありフリーメースン)の養子になった人物で、宮中深く浸透した。大正天皇とは学習院で同級生だった。その息子公一(きんかず)は、コミュニストでゾルゲ事件に連座したが、親(八郎)のよしみで釈放されている。
 明治天皇も伊藤博文も、大正天皇に子どもができないことを知っていたので、西園寺八郎を貞明皇后に近づけたとされる。それを鬼塚氏は詳細に検証していく。そして、大正天皇の子4人(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)はいずれも父親は別とされる。みんな顔が似ていない。(浩宮と秋篠宮もまったく似ていないが…)
 鬼塚氏は、秩父宮が2・26事件の策を練り、終戦時の8・15宮城事件は三笠宮が策を練ったのだと断言している。どちらのクーデターもヤラセだった。
 貞明皇后(節子*さだこ)はしきりに世継ぎに介入したとされる。秩父宮を溺愛し、裕仁より秩父宮を天皇にしようと暗躍した。貞明皇后は長州が嫌いだったので、薩摩系の良子を昭和天皇の嫁にしようとして「宮中某重大事件」を起こしている。
 貞明皇后は五摂家のひとつ九条家から嫁したとされるがウソで、武蔵野のある大農家の娘だったという説と、彼女の本名は朱貞明だという説がある。中国か朝鮮であろう。朱貞明は、明治政府が徳川幕府から接収した皇居(千代田城)を、高級遊郭にしたのだが、そこに召し出された女性だという。千代田城は「千代田遊郭」と呼ばれ、伊藤博文や大室寅之祐らが、維新で職を失った旗本の娘から美女を選んで囲ったもので、天皇と重臣の遊び場だった。朱貞明が長州の侍に騙されたかして千代田遊郭に入れられ、後に大正天皇の嫁にさせられたとするなら、長州嫌いになったわけもわかる。
 貞明皇后は秩父宮の妃を迎えるにあたっては、わざわざ朝敵とされた会津藩松平家から勢津子を選んで、長州への面当てをやった。(ちなみに勢津子のかかりつけの美容師が吉行あぐりである)この会津から皇室への婚姻で、会津の人は喜んだというが…。
 今上天皇が堂々、天皇家の祖先は朝鮮から来たんだと記者会見で言って、驚かされたが、つまり今上天皇は、祖母の貞明皇后が朝鮮系であることを述べていたのだと思われる。
 いずれにせよ、かように日本上層部は、民族的怨念と覇権を巡っての暗闘を続けているのであって、現在の自民党や民主党ら政党の争いとか、霞ヶ関の官僚の争いも、そうした背景を知らねば解明はできないものと思われる。

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【内容】

【Part1 近代日本、その秘密に迫る!】

・幕末日本の秘密
・明治天皇の秘密
・日露戦争・第一次世界大戦の秘密
・昭和天応(裕仁)の秘密

【Part2 昭和の秘密に迫る!】

・二・二六事件の真相
・昭和天皇はしっていた!
・終戦工作と白洲次郎
・マルフク金貨の秘密
・戦争はすべて八百長である
・「四方の海~」の秘密
・白洲次郎の秘密
・吉田茂の秘密

【Part3 福島原発事故を招いた日本の秘密!】

・原子爆弾誕生の秘密
・戦後冷戦、核開発競争のウソ
・日本の原発政策の秘密
・この日本に解決策はあるんのか・・

▲【日本の真相1 明治天皇すりかえ】が以下のyoutubeで見れます!

http://www.youtube.com/watch?v=igJ12gwRtvQ



▲【DVDPart1近代日本、その秘密に迫る!】全文書き起こし
       
以下転載。

今日は日本の歴史について話したいと思います。それも近代から現代にかけて、明治・大正昭和にかけて、みなさんに語りたいと思います。なぜその近代というものが大事かというと、近代を知ることは、今、平成の時代に起きていることを知ることができると思っているからです。で、まず最初にですね、とんでもないって思われる方がいらっしゃるかも知れませんが・・・明治が始まる前、幕末のことを少しだけしゃべりたいと思います。


私がたぶん2006年の10月と思うんですけど、山口県の柳井(やない)市というところに行きました。そこにもうかなり高齢なんですが、松重楊江(まつしげようこう)さんという方が住んでおります。その人を訪ねて行きました。で、彼に会い色んなことを聞きました。彼の本もその前に読んでおりました。どうしても彼に会って本当のことを聞きたいと思って、色々な質問をしました。


柳井市というのは瀬戸内海に面した、山口県の広島寄りのところにある地なんです。光町(ひかりまち)というのがあって、柳井市というのがあります。その光町と柳井の間に、熊毛郡田布施町(くまけぐんたぶせちょう)という町があります。光町はかなり平野で、商業地帯で工業面も盛んです。柳井市も同じように小都市ではありますが、かなり平野部分があります。その光町と柳井の間に山が曲りくねるように競って、海に流れ落ちてるような狭い土地があります。


『熊毛』というのは、山が曲りくねるとか湾曲しているとか、そういう状態を日本人は昔から『熊毛』と言ったらしいんです。それで『熊毛』という町が日本にも沢山ありますが、大体そういう所を『熊毛』といっているみたいです。極端にいうと人が住むのにあまり適さないような所なんです。で、そこに田布施町というのがあります。海辺の、海に近い所なんですが、熊毛郡田布施町というのは、田畑もあまりなく、ほとんど雑草が生い繁るような所です。今でもコンビにがある程度ですね。商業地帯はほとんどない寂しい部落なんです。光市と柳井市にはさまれた寂しい市にですね、日本史の歴史の秘密が隠されています。田布施町と柳井の間に田布施川という川が流れています。その川の両岸から、大正から昭和それから戦争の前後にかけて凄い人材が出てきます。


ちょっと例を挙げてみましょう。明治から大正昭和期にかけて、明治では伊藤博文、ま、ちょっと場所が離れますけど山縣有朋、それから時代が昭和に近づくにつれて、岸信介・佐藤栄作の兄弟、それから田布施川を挟むようにして、代議士では難波作之助、これは難波大助という皇太子を銃でうとうとした男のお父さん、国光五郎これも代議士、で、私が注目するのは岸信介と並び3スケというのがいまして、鮎川義介(ぎすけ)・日産コンチェルンの総帥、久原房之助(くはらふさのすけ)・日立グループの総帥、松岡洋右・戦前の外務大臣。まだいくらでもいます。共産党の書記長であった実力№1の宮本賢治、マルクス主義を世に広めた京大教授の河上肇、法律界の大御所といわれた岩田宙造、戦後最後の内務相の憲兵を組織して『日本のいちばん長い日』を演出した内務相トップの安部源基。こういうのが一度に溢れ出るように、田布施の町の周辺から登場するわけです。


なぜでしょうか。でね、そこの原因をたどる時に、どうしても一人の男にたどりつきます。私が田布施に行きまして、松重楊江という人に会って秘密を聞きました。松重楊江は私にこう言いました。「ここのそばに田布施川という小さな川がある。そこの田布施川-そのひとは柳井に住んでいます-を渡って、あの山の向こうの方から老人がいつも野菜を売りに来ていた。」


その時に私が色々雑談をしている時に奥さんも傍にいまして、奥さんもそう言いました。「そういつも野菜を売りにきていた」と。ところが時々変なことを言う。何を言ってんだといったら、『うちの爺ちゃんは明治天皇や』と言うてるんですよ。で、松重楊江も笑っていたそうです。でも彼は宮本賢治の家のそばで宮本賢治の一族ですから、東京で共産党の幹部まで行き、宮本賢治の秘書になるような男です。故郷に帰ってきてダンボール工場をやったところが成功して、いっぱしの工場の経営者となり、息子に後を譲ってました。優秀な男なんです。で、どういうことかというと『うちのお爺ちゃんが大室寅之佑(おおむろとらのすけ)といって明治天皇になったんだ』というわけです。


話を聞いてみると何か辻褄が合うような気がする。それで色々調べているうちに、ひょっとしたらこの大室近佑(おおむろちかすけ)という老人が私に喋っているのは本当のことじゃないかと思い、萩の郷土史家を連れてきて調査した。萩の郷土史家とともに、山口県の郷土雑誌に『変な老人の話で・・』というようなことで記事を書いた。それを中央の鹿島昇という弁護士が読んで、松重楊江のところに訪ねて来ました。彼が言うのには「私は大室近佑の言う話を信じるから、近佑に会わせろ」と言った。で、まあ、近佑に会う。


それで鹿島昇と松重さんは-その当時はまったく歴史家じゃないんですけど-触発されて二人で本を出そうじゃないかと言った。それから松重楊江は近代史にのめり込むわけなんです。そして独自に調査をやり、大室寅之佑が明治天皇になった過程を、沢山の本に執筆するわけです。私も彼の本に刺激をされて『天皇のロザリオ』『日本のいちばん醜い日』に、彼の話を中心に引用するわけです。で、私はそこで止まれば別ですけど、背景を探ろうと思いまして、幕末から明治にかけての色んな文献を当たっていく過程で納得しました。たぶん間違いなく大室寅之佑が明治天皇になったんだと。


正当な歴史家には非常に申し訳ない話なんです。というのは、ある時私の所に電話がありました。

「もしもし鬼塚さんですか」
「はい」
「私はあのー歴史をやってるもんですが」
「何ですか?誰ですか?」
「秦(はた)といいます」
「秦って、先生あのー、秦郁彦(いくひこ)先生ですか?」
「そうです。あなたは、あなたの書いてる本の中で大室寅之佑を明治天皇と書いていますが証拠はあるんですか?」

と言われますから、私は数々の証拠を言いました。すると彼はこう言いました。

「大室寅之佑の戸籍を見たことがありますか?」
「いやありません」
「戸籍が無い人を、どうして明治天皇だったと言えるんですか?大室寅之佑は本当に存在したんですか?」

で、幾度も同じ質問をするので色んな面から説明したけど、彼は納得しませんでした。
で、それで今言ったように、田布施を中心とした付近から出てきた人も喋り、

「先生、宮本賢治も、野坂参三は少し場所が離れますけど、同じ山口出身ですよ」

と言ったら、彼はポッと言いました。

「鬼塚さん、私はそのことは詳しいよ」
「先生、どうして詳しいんですか?」
「私もその一族だ。田布施の川の近くで私は生まれ育った」

それで私はぴんと来ました。そうか。
歴史を隠そうとするべく現代史の大家になったのかと。
一時間くらい色々喋りました。結局、彼は最後まで

「大室寅之佑の戸籍が無いのに、どうして存在するのか?」

と言って最後は話が別れました。


戸籍が見たことがないから現実とは違うんじゃないか、という話には納得しません。明治天皇になった大室寅之佑を京都の御所に訪ねて、イギリスの外交官たちが謁見します。その時にイギリスの外交官の一人が日記に書いています。『御簾(みす)の中に大男がいた。顔色は真っ黒だった。唇に赤い紅を差していた。とても異様であった』。これは本当に異様な話なんです。孝明天皇というのは肖像画も残っていますが、細面の男です。そして睦仁(むつひと)というのがその子どもですけど、中山慶子(よしこ)と孝明天皇の間に生まれたのが明治天皇になる睦仁です。明治天皇になった大室寅之佑は中山慶子に一回も面接していません。僕はずいぶん調べました。一回も面接しない親子というのがあるでしょうか?ドナルド・キーンというのが明治天皇について書いてます。彼は一回だけ面接したというのを創生し親子の情を書いていますが、それとて一回だけしか面接をしたことがない。親子でありながらしかも一回も会ったことが無いというのは、これはもう正常ではありません。


それで中山忠能(ただやす)は公卿なんですけど日記をつけていて、『睦仁というのは非常に身体が弱くて細くていつも泣いていた』と。そしてまたある日記に突然彼は『奇兵隊天皇が生まれた』と書いてます。奇兵隊というのは高杉晋作が創り、大室寅之佑もそれに参加しました。特に身体が大きかったから、『力士隊』というのがありましたがその一員です。その『力士隊』の一員である大室寅之佑は、伊藤博文が大事に育てました。伊藤博文の家は大室寅之佑の家から歩いても、昔の人だったら30分ぐらいで行くんじゃないでしょうか、近いところに住んでいます。彼は伊藤博文に大事に育てられて、明治天皇に仕立てられたと私は思うんです。それは『奇兵隊天皇』という言葉を、中山慶子のお父さんがはっきり書いています。


そして朝彦(あさひこ)親王というのがいまして、これはショウレイインという悪名を持つ坊主が、天皇にほとんど関係がないんですけど、明治天皇が出来たときに万が一の場合に皇統が消えたら悪いというので、いくらか孝明天皇につながりのある男を探したらおりました、それを朝彦親王として、そこから日本のあの皇族たちが全部生まれて来ます。明治の皇族たちはみんなそこから、その家の子どもたちです。朝彦親王も『明治天皇は毎日将鬼の幽霊を-孝明天皇が亡霊として将鬼の姿として現れ-毎日泣きじゃくっている』という日記を残しています。


もう一つ大事なことがあります。みなさんはご存知かもしれませんが、『徳川家康』を書いた山岡荘八というのがいます。大ベストセラーでした。この人が『明治天皇』という小説を書いています。不思議なことに明治時代になっての天皇を書かず、孝明天皇とその妃のことを書いています。その中で明治天皇が小さい時のことを書いていまして、近所で豆腐屋が通って笛を吹くと「トーフィ、トーフィ」と言ったそうです。京都の八瀬童子という所の部落がありまして、天皇の葬式のときは棺を担ぐ役をしてまして、どうも中山慶子はそこの生まれであろうと山岡荘八は書いています。中山家の兄妹になる息子が中山忠光といいますけど、この人が長州の人によって殺されます。逆らったんですね。殺されます。そういう具体的なことを山岡荘八は書いて、『明治天皇』という題をつけています。山岡荘八は見事に明治天皇誕生の裏を描いていますが、ただ孝明天皇も睦仁も殺されたというところには一行も、まあ触れられなかったと思いますね、戦後書いてますから。


去年、東京大学でフランス展がありました。偶然私は東京にいまして、東大に行ってフランス展を見に行った折に、明治天皇を隠し撮りした写真が東大の資料館で飾ってました。大男です。今の相撲取りでいったらどうでしょうか、百何十キロの大男です。これが明治天皇の姿なんです。泣きべそっていた子どもが突然東京に現れたら、西郷隆盛と相撲を取り江戸城で白馬を乗りまわしたという有名な話があります。そりゃそうでしょう。大男です。『力士隊』にいた男に間違いありません。色が真っ黒くて大男でブサイクな男です。キョソーネという人が描いた肖像画による明治天皇とは似ての似つかん姿です。これはフランスの人が発表し東大が認めて明治天皇の写真として発表してるんだから、これこそ間違いありません。


ということは、私たちは田布施という町の、これははっきり申しますと朝鮮部落です。なぜ朝鮮部落かと申しますと、そうですね、これはちょっと語りにくい話なんですけど、歴史的にいいますと山口県は長州藩になる前に大内藩だったんです。守護大名・大内家がずっと支配してました。大内家は完全な、本人たちも言ってますが朝鮮人です。大内家の家臣が毛利が侵入して負けたために散っていくわけです。彼らが散り散りになって、ほとんどが部落民にされるわけです。この過程は上智大学の神学部の教授が『遥かなる高句麗』という本の中にはっきりと書いています。


まだあります。2006年10月6日か8日号の週刊朝日に『家政婦は見た!阿部晋太郎研究』というのが出ました。安部晋三は岸と佐藤栄作の直系の一族です。その一族の安部晋三のお父さんの晋太郎が死んで棺に入る時に、家政婦をずっとやって晋太郎を子どもの時から育てた久米うめさんという女性が週刊朝日の記者に言ってます。「死ぬ時初めて分った。日本人の体型ではない。朝鮮人の体型だ。棺に入れるとき初めて全体の姿を見た。晋太郎は生前いつも口癖のように私に言ってた、『俺は朝鮮人だ、俺は朝鮮人だ』。私はまさか晋太郎が朝鮮人とは思わなかったけど、死ぬ時に棺に入れる姿を見て、ああこれは日本人ではないということを認識した」。


ということはそういう面から見ても、あの部落は私も行ってみましたけど朝鮮部落です。そして非常に寂しい所なんです。そこからあの周辺の人が、日本を支配する人が沢山出て来るということは、大室寅之佑が明治天皇になったということの証しではないでしょうか。例外があるでしょうか。2キ3スケといって、2キは東条英機と星野直樹ですが、3スケといわれるのは先ほどいいました岸信介・松岡洋右・鮎川義介この3人が期せずして一致して満州帝国を創ります。そして膨大な利益を上げます。


※「2キ3スケ」とは満州国に強い影響力を有した軍・財・官の5人の実力者のこと。「弐キ参スケ」は彼らの名前の末尾からつけられた。東條英機(とうじょう ひでキ、関東軍参謀長)星野直樹(ほしの なおキ、国務院総務長官)鮎川義介(あいかわ よしスケ、満業(満州重工業開発株式会社)社長)岸信介(きし のぶスケ、総務庁次長)松岡洋右(まつおか ようスケ、満鉄総裁)。5人のうち、鮎川義介・岸信介・松岡洋右の3人は満州三角同盟とも称された。(ウイキペデイアより転載)


細川護貞(もりさだ)『情報天皇に達せず』という本があります。この本によりますと、東条があの当時数億円単位の金を政界工作に使ったとあります。岸信介が東条を追い落としたのは、近衛が秘書の細川に言ってます「あれはお前が言うような、世間で言われているような話じゃない。東条が金をバラまきすぎたのを岸信介がみんなに訴えて、東条を失脚させたんだ」ということです。東条は一族ではないために、金をたくさん貯めて日本の銀行に戦後入れます、そして戦犯で殺されますが、預金封鎖になって全財産を無くします。岸信介はちゃんと天皇と同じようにスイスの銀行に預けたために、岸信介・佐藤栄作・安部一族は大金持ちです。今、安部晋三が総理大臣になれたのも、最終的にはそのお金が役に立ってるんです。ということを持って私は大室寅之佑が明治天皇になったと、まずここから考えますと日本の歴史が見えてきます。


コンプライアンスというのは「情け」とか「いい加減」とか「気まぐれ」とか「気休め」、それにドールをつけてコンプラドールという言葉があります。これは要するに外人がオモチャのように使えるような、気休めの人材を集めて自由自在に操り、その国を支配するということです。中国にアヘン戦争をしかけて、香港・上海銀行を中心に支配していくユダヤ人たちは、中国人の連中をコンプラドールとして使いました。同じように日本人をいちばん大事なところで、権力の中枢でコンプラドールにされた可能性、大なんです。大室寅之佑が明治天皇になり、そして大正・昭和と続く過程で、色んなスキャンダルに巻き込まれていきまして、そのスキャンダルをヨーロッパ、殊にユダヤを中心とする国際金融マフィアが知り、天皇一族を操っている。これが第二次世界大戦の遠因になったと思うんです。

どうでしょうか。そういう面から歴史を見ると、私に電話をかけてきた秦さんやら、それから半藤一利さんの歴史観とはまるきり異なるわけです。で、私はみなさんにお願いしたいのは、やはり日本を知るためには日本の暗い部分に目を向けるべきではないか。それを直視しないから日本人はいつまでたっても、今もそうですけど、アメリカ人に利用されてるじゃないかと。僕たちはそういうことを全部知ろうじゃないかと。知った上で堂々と外国の勢力に立ち向って行くべき時が来たんじゃないでしょうか。


それでまた、これで続きがいっぱいあります。日露戦争もぜんぶ同じパターンで仕掛けられたと思うんです。日露戦争を始めるとき、伊藤博文は反対します。「負ける」って、「するな」と。伊藤博文も孝明天皇や睦仁殺しに一番かんでいる男なんですが、彼でさえ「やったらイケン」と言います。でも戦争をするように仕掛けられて、高橋是清が「金がないのにやるのか?」「じゃ、お前金策に行ってこい」というので彼が金策に行って、いちばん最初にイギリスのロスチャイルドに会います。


イギリスのロスチャイルド家は自分では直接関与したくないので、クーン・ローヴ商会、イギリスのロスチャイルド家が金を出して全額投資したクーン・ローヴ商会に紹介します。高橋はイギリスからアメリカに渡ってクーン・ローヴ商会に「国債を買ってくれ」と言います。ちゃんと話が出来てたんでしょう、クーン・ローヴ商会が買います。シフという男ですけど買います。それでイギリスから軍艦を買ったりします。万が一日本が負けて国債がパーでもだいじょうぶ、日本を実質的に支配すればいいんですから。そして軍艦さえないのに、イギリスから軍艦を買って運良く勝ちます。全部これ仕掛けられたと思うんですよ。


で、日露戦争の後に第一次世界大戦があります。これも運良く日本がちょうど良いいところで甘い汁を吸わせてくれるように、イギリスを中心とする勢力が最後の段階で日本を迎えいれて、ドイツ敗北のために役立ったと言って、ヴェルサイユ条約で日本に太平洋の島々の委任統治を認めます。実質的に上げるわけです。日本が太平洋戦争でがんばれたのも、あの小さな島々をもらったからなんです。それがなかったら、日本はとてもアメリカに対抗できませんでした。


で、太平洋戦争の前に大正天皇のことを少し喋ろうと思います。東久邇(ひがしくに)というのが、戦後、首相になりますけど、この男のことを少し喋ろうと思います。もうスキャンダルだらけの日本ですけど、大正天皇は子種がありませんでした。歴史的にまちがいはありませんが、現代史家は認めません。でも子種はありませんでした。というのは、2・26事件で弟を亡くした河野司というのがおりまして、この人が2・26事件というのはどうして起きたんだろうと調べて回る時に、東久邇にぐうぜん遭って話を聞いた時に、東久邇がこういうように言いました。「お前の弟が死んだのは、遠因は昭和天皇と秩父宮の争いにある」。


で、それはどういうことかというと、大正天皇に子種が無かった。じゃ、昭和天皇はなぜ生まれたかということを、東久邇が河野司という男に喋ります。これは映画脚本家・笠原和夫という、東映全盛時代に脚本を書くんですけど、この人ものすごい勉強家でして、2・26やら色んな事件を映画につくるべく脚本を書きます。この男が河野司と対談をしてます。その中で河野司が笠原に言います。「私はあの時、『軍艦』というキャバレーでたまたま東久邇と遭った。それで東久邇が私に『河野、お前に今日は本当のことを話してやろうか』と言って話してくれた。」と。

◎河野司と三島由紀夫は親交がある。三島由紀夫がごく親しい人しか招きいれない自室の部屋に入れて語り合うほどの仲である。三島由紀夫はやはり2・26事件の処罰に連座した末松太平とも付き合いがある。

「じゃあ昭和天皇はなぜ生まれたんか」と言ったら「そこまでは言われない。だけど貞明(貞明皇后)はえらく昭和天皇の父親を嫌ってた」ということです。それで私はハッとしました。私は小学生のころだったと思うんですけど、戦後、カストリ雑誌のようなものを読んだことがあるんです。その中で西郷八郎という名が出て、これは西園寺八郎のことを書いたらマズイと思って西郷八郎になったと思うんですが、その西郷八郎という男が登場して、大正天皇の傍にいた妃を手に取って、大正天皇が嘆くのにもかかわらず山に連れて行ってチョメチョメした、という三文小説がカストリ雑誌に載ったことがあります。もうずい分前の戦後のカストリ雑誌です。ひょっとしてあれは本当の話じゃないのか。西郷八郎というのは西園寺八郎のことではないのか。それで西園寺八郎をいっぱい調べて見ました。


『木戸日記』というのがあります。木戸幸一が戦後、東京裁判資料として提出した資料です。都留重人(つるしげと)というのが、木戸の娘を貰ってまして、その関係で都留重人が木戸を説得して、「あんたの日記をもう出せ」というので世に出たものです。その中で年月不詳というのがあって、島津治子の話があって、この島津治子というのは貞明皇后の女官を長く務めたんですけど、主治医が亡くなった後に、貞明から女官を去るように言われまして、去った後に民間宗教に凝り固まって妙な言動をする女なんです。そのことを木戸幸一が書いていて、年月不詳という中にこう書いてます。『大正天皇の侍従の指令-貞明皇后のお相手八郎のこと』。『貞明皇后のお相手八郎のこと』とは西園寺八郎のことです。その西園寺八郎は隠れた重要な人物で、ちょっと余分なことを喋ります。


長州藩に徳山藩というのがあるんですけど、長州は萩が本家で(徳山藩はその)分家なんです。そこに毛利元徳(もうりもとのり)という分家なんだけれども一応城を構えた殿さまがおりまして、その殿さまの八番目に生まれたから毛利八郎といいます。その毛利八郎が本家の毛利頼近の養子になります。ま、形でしょう。で、頼近の息子として、形式なんでしょうけど、西園寺公望の養子として西園寺八郎となる。西園寺公望は女房がいませんでしたけれど、子どもを儲けていたんです。新子といいます。その新子と西園寺八郎が結ばれるんです。ちょうどその頃に、西園寺八郎は子どもの時から大正天皇と同じ学習院の同期で幼友達なんですが、大正天皇は子種がないので結局ある筋から西園寺八郎に「お前が強引にやってこい」と、で、西園寺八郎は命令されるがまま貞明とチョメチョメしまして、まチョメチョメという言葉はどうでしょうか、チョメチョメしまして子どもが生まれます。それが昭和天皇です。


◎私見では昭和天皇の母親は貞明皇后ではない。昭和の闇の本質は昭和天皇と秩父宮の確執ではなく、長州を後ろ盾にする昭和天皇VS極端な長州嫌いの貞明皇后の確執だと思う。これが昭和最大の分水嶺2・26事件を引き起こす。貞明皇后は田布施村政権を佐幕派に大政奉還しようと図り、樺山愛輔を二度も駐米大使・松平恒雄が駐在するワシントンへ往復させて、松平容保候の四男である彼の娘を秩父宮の妃に貰い受けた。貞明皇后が秩父宮を皇位につけようとした動機は盲愛ではないと私は思う。彼女の言動からは意思がはっきりしていて正義感が強い人となりが伝わってくる。笠原和夫は2・26は第二の壬申の乱と言ったが、私は2・26は第二の戊辰戦争であると考えている。そして田布施村王朝を転覆させようとした貞明皇后は、戦後心臓麻痺で急死している。私は吉田茂と昭和天皇が暗殺したと考える。白洲次郎は戦後は暗殺工作から身を引いている。


◎重松楊江はまた次のように述べている。『貞明皇后の本当の名前は朱』田布施村から輩出された人脈によって樹立された明治王朝・大正王朝・昭和王朝・平成王朝とは即ち朝鮮王朝のことである。明治維新で職を失った旗本の娘の中から、美女を選び城内に入れて「千代田遊郭」なるものを伊藤博文らがつくりました。そこは、天皇や重臣たちの遊び場でした。そこに朱貞明がやってきました。才色兼備ゆえ、天皇や伊藤博文に見初められて、やがて大正天皇の妃になったのです。』


◎つまり明治王朝・大正王朝・昭和王朝・平成王朝とはすなわち朝鮮王朝のことである。よって貞明皇后の出自が朝鮮であることは理にかなっている。貞明皇后が大正天皇と結婚したのは15歳である。白羽の矢を立てられた彼女が九条家に引き取られ、学習院に通わされ鍋島信子・牧野雪子と交友している在学中、大正天皇の妃候補として千代田城にお目見えしたのだろう。おそらく貞明皇后は朝鮮王朝を引き継ぐ嫡子を産む女性としてふさわしい出自なのだろう。


◎また私見では昭和天皇と貞明皇后は血縁がないと考える。貞明皇后は極端な長州嫌いで有名、かつ個性的な性格で意思が強い。西郷八郎が彼女の隙を狙って襲えたのは一回きり、貞明はガードを堅くして(例えば女官を常時周囲におく)防御しただろう。貞明皇后が西園寺八郎を拒絶したので、田布施村の大室家の血筋に連なる子どもが連れてこられたのが昭和天皇である考える。貞明皇后はDNAも強烈なのか、昭和天皇以外の三人の息子は彼女に酷似している。猛禽類のような鼻をしている。その中で昭和天皇一人だけ面立ちがソフトである。見目良い賢そうな子を選んできたのだろう。実際昭和天皇は恐るべき頭脳の持ち主である。鷹揚な生物学者然とした風貌で「あ、そう」を連発するほほえましいキャラを演じた千両役者でもある。幼少の時「昭和天皇と秩父宮は双子である」という風聞が根強くあったという。この兄弟は母胎に宿っている時期が一部重なっていたのだろう。双子ではなく母胎が二つあったのだ。昭和天皇には長州出身の西園寺八郎が後ろ盾になった。昭和天皇を銃撃しようとした難波大助は田布施川の辺に住んでいたから、そのことを知っていたのかもしれない。


で、彼(八郎)は西園寺家に新子という女がいながら、まったく寄り付きもしないで天皇家に入りこんでピッタリと自分の息子の昭和天皇の傍にいます。ずーっと侍従をします。一時、大正天皇の侍従武官長の奈良武次という男とけんかして、けんか両成敗で数年間、昭和天皇の傍を離れますが、死ぬまで傍にいます。ということは昭和天皇の行動も全部、西園寺八郎が牛耳ったであろうと言われるほど、傍にいます。その西園寺八郎の子どもが公一(きんかず)といいます。一番大事なのは、次女が春子といいまして、この春子が住友家の御曹子の住友吉左衛門(第十五代当主・住友友純)の嫁さんになります。ということは、住友と天皇家は血縁もいいとこなんです。そうでしょう?そこから考えると昭和の闇もまた見えてきます。


◎八郎の岳父・西園寺公望は1919年パリ平和会議全権大使。、シナリオについては知悉していただろう。日米開戦前夜に死んでいるのは、シナリオに反対して消されたと私は思う。公望の私設秘書・原田熊雄は住友に丸抱えされてヤラセの連絡係りとして活躍する。住友は確かに怪しい。


じゃあ秩父宮は二番目に生まれますが、秩父宮はどうなんでしょうか。秩父宮は東久邇が自分から言えないけど、東久邇の子どもなんです。「こいつは何を言ってるんだ」と思うでしょうけど、『西園寺候と政局』という原田熊雄という男が書いた本があります、その本を私が言ったようなことを頭に置いて読まれると、東久邇と秩父宮が親子であるということが良く分ります。いつも行動を共にして、西園寺が東久邇が妙な行動を取ると秩父宮を呼びつけて「東久邇に言え、妙な行動を取るな、と」。そして又、秩父宮が変な行動を取ると西園寺候が東久邇を呼びつけて「あの子どもをもう少しセーブしろ」と言います。東久邇は自分を自慢したくて、河野司を呼んで喋ったのかもしれません。(大正天皇に)子種がないことは事実です。で、貞明皇后はいろんな男とデキてます。で、樺山愛輔というのともデキているのはまちがいありません。そういうのから昭和の闇も見えてきます。

◎樺山愛輔は白洲次郎の岳父である。私には次郎よりよほど優秀なインテリジェンスに見える。白洲次郎はエージェントのくせに饒舌で注目を浴びすぎている。付き合っている文士たちにシナリオの一端をポロポロ喋り、本やエッセイでバラしている。エージェントとしては失格であるが、わざとやっているのかもしれない。「俺の正体を見抜け」という声がきこえてきそうなほど手がかりを与えている。それに比べて愛輔は寡黙である。まったく喋らない。だからほとんど歴史の俎上に上げられず、ノーチェックできたエージェントの鑑である。チャーチルも本質はエージェント、吉田茂もエージェント、ルーズヴェルトも下半身不随でなければ秘密裡に飛び回っただろう。自由に動き回れないので代わりにドノヴァンにOSSを組織させた。ルーズヴェルトはドノヴァンを『私の秘密の足』と名づけている。


◎ウィキペディアによると、樺山愛輔(1865年6月3日-1953年10月21日)は、日本の実業家、政治家。伯爵。1865年、薩摩藩士・樺山資紀の長男として鹿児島に生まれた。1878年、米国に留学。アマースト大学卒業後はドイツ・ボン大学に学ぶ。実業界に入り、日本製鋼所、十五銀行などの役員を務める。(注 白洲商会の倒産は十五銀行の不調が原因である。白洲文平に引導を渡して次郎を帰国させる舞台設定は、樺山愛輔がやったのかもしれない)1922年、父資紀(海軍大将、伯爵)の死後、爵位を襲爵した。1925年に貴族院議員に選任され、1947年に貴族院が廃止されるまで務めた。1930年のロンドン海軍軍縮会議には随員として参加。(注 山本五十六が呼び会議に出て世界に注目された)太平洋戦争中は、近衛文麿や原田熊雄、吉田茂などと連携して終戦工作に従事した。1946年、枢密顧問官に就任。20年以上の滞米経験から米国内に多くの知己を持ち、日米協会会長や国際文化振興会顧問、国際文化会館理事長、ロックフェラー財団などの国際的文化事業にも携わった。妻常子は、伯爵川村純義の娘。(注 昭和天皇と秩父宮を養育した人物である)壮年に至るまで政官界官職にキャリアを残していないが、鹿児島大百科事典(1981年)によれば、原因は体を壊したためとする。(注 正子によれば愛輔は猪肉が好物で、食べたくなると猪を肩にかついで坂を上がってきたという。実に壮健な人物である。)

◎また樺山愛輔は20年以上も滞米経験がある。アマースト大学の同窓生には後のクーリッジ大統領、モルガン商会のモローがいる。アマースト卒業後に引き続きボン大学留学。当時ボン大学には次郎の父親(ということになっている)白洲文平が留学している。文平もその前にハーヴァード大学に留学しているのである。


◎ぴゅあ☆ぴゅあ1949http://blog.livedoor.jp/k_guncontrol/archives/50282676.htmlよりダイジェストさせてもらいます。『白洲次郎の英国人脈にはジャーディン・マセソン商会の創業一族のウィリアム・ケズィック(兄)、ジョン・ケズィック(弟)がいる。ウィリアムは昭和20年代マセソンの最高幹部、ジョンは白洲の友人。同社はイギリスの極東政策を実質的に支配していた商社であり、阿片戦争(1840-1842)の影の主役。このジャーディン・マセソンに白洲は日鉄・広畑工場(現・新日鉄)を格安の、わずか1億円で売却しようとし、日本の財界に阻止される。また、白洲がのちに会長となる東北電力にもジャーディン・マセソンは絡もうとしている。このJM商会はもともと吉田茂の父・吉田健三と深い関係があり、このJM商会が白洲次郎と吉田茂をつなぐきっかけになった思われる。さらにGHQ民生局(GS)文書より、「多くの人間は、白洲がビジネスで成功したのは、義父・樺山愛輔を通じた三井実力者たちとのコネクションのお陰と考えている」(1947年)。白洲次郎は徴兵を忌避したが、それが可能であった理由も同じくGHQ民生局(GS)文書より、「白洲は(戦前、戦中は)日本海軍と水産業会の諜報連絡役を務め」(1947年)とある。戦前/戦中、日本の商社や水産会社が情報機関に協力したのは事実である。仕事で欧米やアジアを回り、帰国後、入手した情報を提供した。必要なら、海外支店駐在員に諜報員を受け入れ、資金調達も支援してきた。』


◎http://d.hatena.ne.jp/m3953/20101221よりダイジェストさせてもらいます。『吉田茂はロンドン駐在中にスコッチ・メーソンになったそうであるが、養父の健三もも欧米エスタブリッシュメントと深い関係を持っていたようである。健三は、1864年、16歳の時、家を出て大阪で医学、長崎で英学を学んだのち、1866年英国軍艦に便乗して欧州に遊学した後、明治元年に帰国する。「英一番館」ことジャーディン・マセソン商会に入り、番頭をふりだしに、のち独立し、さまざまな事業を手がけ、横浜で1、2を争う富豪となる。健三の父である渡辺謙七もどうやらジャーディン・マセソン商会で番頭をやっていたようである。渡辺謙七は福井藩を脱藩して横浜へきて、ジャーディン・マセソン商会に入社し、その後、回船問屋になった。『渡辺謙七が福井藩を脱藩してジャーディン・マセソン商会に入社し、その息子の吉田健三もジャーディン・マセソン商会して財を築く。そして吉田健三が資金提供した光明寺が立つ久保山の火葬場で戦犯が火葬され、その息子の吉田茂が戦後日本を率いていく・・・、なんだかものすごい因果を感じてしまいます。』


◎世界の真実の姿を求めて!http://oujyujyu.blog114.fc2.com/blog-entry-679.htmlより転載させてもらいます。『吉田茂の妻となった牧野雪子はアリス(グルー駐日大使の妻)を通じて、モルガン=ロスチャイルドの洗脳教育を受けた。在日大使ジョゼフの妻アリス・ペリー・グルーは、名前の示す通り「黒船ペリー」の末裔として日本・東京で育ち・教育を受けていた。アリスの「幼馴染」であり、華族女学院=学習院女子部時代から、常に、アリスと共に3人で行動し、アリスから世界経済・政治について「レクチャー」を受け、侵略者ペリーと、ロスチャイルド=モルガンの「情報操作教育=洗脳教育」を受けていたのが、クリスチャン・鍋島信子、と九条節子であった。九条節子は昭和天皇・裕仁の母であり、アリスの親友・鍋島信子の娘は秩父宮妃である。このアリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と、麻薬売買で富を築いたキャボット一族である。』


◎麻薬&奴隷商人たちに繋がるのは、田布施村王朝を樹立した伊藤博文以来の伝統である。牧野と樺山の娘婿たちも同様である。吉田茂のあらゆる伝記本は、遺産60億円の使途は不明だと書いて済ましている。吉田茂がこの莫大な遺産を受けとったのはわずか11歳の時、平素頑健だった健三が心臓麻痺で急死したためであるが、恐らくザ・オーダーのデス・ノートに心臓麻痺と記載されていたのだろう。吉田茂は白洲次郎を使って山本五十六、近衛文麿、尾崎秀実を抹殺している。五十六暗殺のスケジュールは、13日に昭和天皇のお気に入り鮫島元侍従武官が行動予定時刻の詳細を打電、これが死を賜る合図である。暗殺劇の予定は15日だったが「天候が良くない」という理由で延期された。アメリカ側が傍受できなかったのである。17日旗艦『武蔵』から再度打電され、これが傍受される。そして翌日18日の暗殺が決行される。


◎『この時ブイン上空で待ち伏せしていたジョン・W・ミッチェル少佐率いるP38戦闘機十六機は、ガダルカナル島のヘンダーソン飛行場から飛来してきたものであり、地点としても航続距離ぎりぎりのところであり、長時間滞留するわけにはいかなかった。有り難いことに山本五十六長官機一行が飛んでくる時間、コースは予め判明しており、時間に厳格な長官の性格まで分析した上での迎撃作戦なので、我が方がこの大編隊に気づかない限り、攻撃側の有利さは絶対であり、この勝負の帰趨は火をみるよりも明らかであった。』(衣川宏『ブーゲンビリアの花』より)


◎打電を幇助したのが海軍主計士官・中曽根康弘。陸海軍に秘密ルートを持つ白洲次郎が協力している。中曽根はこの功績によって吉田コネクションに加わり、戦後若手政治家として頭角を現わす。原発導入のためハーバード大学のサマースクールに参加、キッシンジャーの知己を得る。鬼塚さんも中曽根を転がして原発推進を図った黒幕は、吉田茂であると指摘されている。若手議員の中曽根や讀賣の正力が、『国策』を左右できるとは思えない。原発推進の『国策』は、国会議員でさえ立ち入れない奥の院で既定事項とされていたのである。


例えば2・26事件というのがあるんですが、昭和の闇というのは平成の闇もそうですが、ますます深まるのは、明治の時に話がさかのぼる訳ですよ。幕末に。その闇を私たちが直視してかからないから、今この福島の原発にも全部つながっていると僕は思うんです。福島の原発も真実を見るためには、そこから見ようじゃありませんか。そしてあえて言うなら日本人は、どこかでその巨大な闇に立ち向かうべき時に来ていると思います。  

(転載終わり)

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